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J-BREATH 連載講座

講師:木田 厚瑞先生 

 呼吸ケアクリニック東京 臨床呼吸器疾患研究所 医療法人至心医療会 理事長


J-BREATH第69号 2013年12月号掲載

第1回 なにを伝えていきたいか(前編)

 
故遠山雄二さんが、日本呼吸器障害者情報センターを立ち上げられてすでに14年近くが経過しました。お元気なころの遠山さんと何度もお話ししたことが懐かしく思い出されます。いつもはげしく檄をとばしているような話しぶりでした。
 いまになって思うことはご自身に残された時間が長くないことを自覚しておられ、思うように事態が改善していかないもどかしさを痛感しておられたに違いありません。医師と患者さんの距離が大きく隔たっていて距離がなかなか縮まらないこと、頼みにする医師が必ずしも患者さんの側に立って行動してくれているとは限らないこと、専門的で新しい情報が患者さん側に到達しておらず患者さんがいま受診している医師に不信を持ちながらも自分ではどうにもできない状況に置きざりにされてしまっていること、行政も困っている患者さんのいまの実態を把握しながら積極的に動こうとしてくれていないこと、などなど。会うたび多くの愚痴や希望や、怒りの言葉を聞いた覚えがあります。あれからかなりの時間が経ったのに残念ながら遠山さんが望まれたような状況には改善していない。
 

知識と情報の違い


 私は、医師になってから40数年あまり、これまで意識してメデイアを通してできるだけ多くの人に必要な情報を伝えたいと思って行動してきました。これまで私が書いた本ではそのほとんどを自分ひとりで書いています。医学の教科書はその分野の専門家が数人で分担して書くことがふつうですから、一人で全てを書き上げることはほとんどありません。私の書いた本の大多数は医師向けというより患者さん、家族、看護師、理学療法士などが対象の本です。ある高名な先生から自分が研究者、専門家になりたいと思う人はそんな本を書いてはいけないと忠告されたこともありました。研究に専念すべきだというのです。
 啓蒙的な本は、本屋に行けば今日では多数みられるようになっています。むしろ医学書ブームの時代といってよいくらいです。インターネット時代になり自分で知りたいと思うことはそれこそ短時間であらゆる情報を集めることができるようになりました。ゆっくり本を読むという世代も少なくなりつつあります。情報過多の時代ですがその中にはとても信じられないようなことを書いているものがあります。テレビ番組では怪しげな医療情報が大量に流されてくるし、毎日、目にする大新聞でさえも出ている医療関連の広告にはにわかに信じがたいものがある。中を見れば1面をさいたスペースにいかにも弱みにつけこむような「あなたの悩みの解消」のためのさまざまな器具や食べ物、薬などが紹介されています。週刊誌や雑誌に出ている医師どうしの対談ですら疑わしい話が混在していることがあります。
 病院を受診しても長く待たされたうえ、慢性病では患者さんに伝え、教えていかなければならないことが多いのに、丁寧に病気について教えてくれることはほとんどない。他方、医師の立場でいえば、残念ながら限られた時間にたくさんの患者さんを診なければならない状況で精神的な余裕もないことも事実なのです。遠山さんが指摘していたように医師と患者さんは病気の治療を共有しながら互いにその距離がうめられず互いに当惑し続けている。
 医療に関するものは呼吸器病だけでもそれこそ膨大な新しい知見がある。わが国の基礎医学研究の発展はすばらしくiPS細胞の開発はその代表といえるものです。しかし、実際の医療現場に伝えられる情報は少なく、ましてや患者さんに届けられる情報にはほとんど進歩がみられていません。このことは例えていえば高速道路を利用して毎日、膨大な生活物資が貨物として運ばれている。それなのに細く曲がりくねった横町を経て自分たちの家に届くシステムが出来上がっていないのと同じことです。近代医学の成果はできるだけ早く患者さんたちの手もとに届くようにしなければなりません。
 私は医療では「知識」と「情報」は区別されなければならないと考えています。ここでいう「知識」とはインターネットや雑誌、新聞などを利用して得られるものを指します。これに対し「情報」とは自分自身の病気の治療のために必要とされる事がらです。前者を英語ではknowledgeと呼び、後者はinformationと呼んで区別しています。このような区別を教えてくれたのは外国の医学会でたまたまその発表をしたイギリス人の呼吸器内科医ですが、その区別を聞いてまさに目から鱗のような気がしました。患者さんは自分自身の病気の治療のために必要な「情報」を正確に理解し、理屈が分かった上で治療を進めることでかえって不便にならないよう自分の日常の生活に合わせ、あるいは、また決して自己流にならないように病気とうまく付き合っていかなければならないし、他方、医師の立場では患者さんその人に必要な情報をできるだけ伝えなければならない。知識は自分自身に合うようにかみ砕いたときに初めて大切な情報に変わるのです。一般論としての説明や、断片的な知識ではその人の治療に役立つかどうかが分からないのです。ましてや医師が難解な医学用語を並べて説明しただけでは説明したことにならない訳ですが、医師の説明技術の差、医師自身が持てる情報量と正確さもかかわってきます。自分の力ではかみ砕けないような知識はとても役立つ情報にはならない。
 私たちが診ている患者さんは大人、つまり成人です。患者さんに必要な事がらを継続的に伝えていくこと、これは患者教育と呼ばれています。大人に対する教育は成人教育とよばれますが「成人学習」ともいいます。学校での教育が、教師という大人によって学びのシナリオに従って行われるのに対し、成人教育には、しばしばそのようなシナリオというものがありません。学校での教育は卒業することであり、次のステップの受験というような分かりやすい目標がありますが成人教育では、あくまで学習者本人が主役です。新聞に広告が出ているような文化講座、資格取得講座、講演、セミナーのようにインストラクター、講師がいる場合もありますが、その場合でも出席は義務ではないし、いつでも気に入らなければ止めることができます。自分自身の趣味を高め、広げていくというのんびりさがあります。ところが患者教育はそのようなのんびりしたものではなく今日、今すぐに知ってもらわなければ困るような内容です。インターネットを利用した自己学習は知識だけに終わる可能性が高い。患者教育ではインストラクター、講師は医師、看護師、薬剤師など医療に関わる人からのことが多く、それもあなたの健康状態を良く知っている人があなたの理解力に合わせて伝えてくれるものでなくてはなりません。これは合格するためでも卒業するために学ぶのでもなく、いのちを守るために知るべき、守るべき大切なことを身につけるというような意味合いが大きいのです。
 

医療、医学にみられる確かさと不確かさ


 現在の医療は科学的根拠と経験にもとづく根拠という二つの要素から成り立っています。医療がこのような形に至るまでには長い歴史がありました。現代の医療が出来上がるまでの水源をたどっていくといまから二千年以上前、エーゲ海にあるコス島に生まれたヒポクラテスまでさかのぼることができます。医学の父として知られるヒポクラテスはこう述べています。
 

科学と意見という、二つのものがある
前者は知識を生み、後者は無知を生む 

 
 新しい治療は一部の医師の経験で行われるのではなくて科学に基づくものでなくてはなりません。個人的な経験による意見は科学といえるものではなく結果的に医学の発展を妨げるのであると警鐘を鳴らしているのです。ところが科学性を証明することは容易なことではありません。10人の患者さんが集まればみんな顔が違うように体も違っています。同じ病名であっても少しずつ違っており同じ薬を使った治療をしても治り方には微妙な違いがある。検査の結果が同じであって診断名も同じであったとしても同じ治療でつねに変わらぬ効果が得られるわけではありません。このような困難さの中で科学性を実証していくのが治験ということです。
 もともと、医学で使われている科学のうちデータの源を患者さんから得ようとする研究では、ある程度の不確実さを避けることができません。臨床医がもっとも信頼して読んでいる医学雑誌〝ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン〞は最近(2013年)、医療での不確かさを医師、患者さんその家族がどのように克服していくかについて次のような論文を掲載しています。医療は不確かさの上に立っている科学である。例えば、どうしたら癌を早期発見できるかという病気の発見という段階から、病気が極めて重くなり末期となった段階で人工呼吸器をはずすかどうかという問題まで、つまり医療の全ての段階で患者さん、家族に判断してもらうために必要とされる明確な基準がないと断じています。例えば、この病気では半年内に死亡するリスクが25%です、というような説明をする医師がいます。具体的な数字を挙げて説明することは分かりやすいし納得できそうです。その数字を聞いただけで死亡する25%に入るのではなかろうかと震え上がる人、自分は大丈夫だ75%に入るだろうからと安心する人。この例では数字を上げて説明することで一見、分かったような説明も、同じような病気の患者さんが100人いたとしてうち25人の中の1人が死亡するという意味であるのか、75人の1人が生き延びるという意味なのかが分からない、と説明のむずかしさを挙げています。
 医師はどのデータが頼りになるかを判断しやすい立場にあります。これはどの医学情報がどのくらい確かであるか、どこから得られたものが信頼できるかを知っているからです。治療のすべてにおいて治験のデータがそろっているわけではないし、ましてや3種類以上の薬を服用している人では薬相互の作用は予想できないという人もあるくらいです。ヒポクラテスの言葉に従って、科学にできるだけしたがって行おうとしても「科学」の不足部分は埋めようがないのが実態です。厳密にいえば科学の部分だけで医療を行うことはかなり難しい。現実的な立場でいえば「科学の知見」と「経験にもとづく意見」の両方を持ち合わせた医師の判断で進めざるをえないということになるでしょう。しかもこれを伝えるのは医師だけでなく医師と一緒にチームを組んでいる看護師、栄養士、理学療法士、薬剤師などの支えも大切です。
 

医学における集合知の大切さ

 
 知識、情報の問題に関わる話を続けます。
 専門家が持てる情報、これは専門知と呼ばれています。実はこれもあてにならないと言いきる人がいます。東京大学で情報学を研究する西垣通教授は、『集合知とは何か』(中公新書)の中で専門家と呼ばれる人たちが信頼を失った分かりやすい事件が、3・11東日本大震災と東京電力福島第1原発事故であったと指摘しています。「当時、テレビに出てきて繰り返し、偉そうにしゃべる専門家や学者センセイのいうことはあてにならなかった。その後、事実が明らかになったことで結局、自分で情報を集め、なんとか、身を守らなくてはならないと自覚するようになった」と専門知への不審が最近、急に高まってきたことを指摘しています。実際に恐ろしい事故が起こったのに関連する専門家たちがそれを懸命に隠蔽し、一般の人々に知らせなかったことが問題であると指摘するのです。西垣は、これはわが国の専門知の中に秘かに巣くっている癒しがたい病弊であると、自分の立場を踏まえながら深く反省をしています。これは医療の分野でも十分、起こりうることであり私自身も改めて自覚しなければならないことと思っています。なぜこのような社会に成り下がってしまったのか。西垣が指摘することは次の通りです。
 第1に専門知識が過度に細分化したために生じた問題であると言います。第2の原因は学問研究への無制限な市場原理の導入であるというのです。その上でネットによる集合知は21世紀のもっとも重要な応用分野になる可能性があるといいます。ネット上で多くの人の間で交わされる情報は多くの人の意見を反映するがゆえに確定した情報になっていく可能性は否定できません。1950年代にポラニーという人は「個人的知識」という本を著しており、その中で、人間の知識は、たとえ科学的なものであっても、あくまで個人が主体的に対象とかかわることで形成されるのであり、論理と実証といった「客観的」な手続きによりみちびかれるのではない、と結論づけます。つまり成人学習のあり方を述べたものでしょう。
 しかし、医療、医学についての問題もこの考え方があてはまるとすれば、ややうすら寒くなるような思いがします。これまでにもHIV感染や新型インフルエンザ流行の際の風評被害は、患者さんを加害者扱いにするなど無責任なうわさが飛びかい、病気の人を苦しみの中に追いやるような行為を目にしてきました。ある治療による治療効果を正確に判断するためにはできるだけ多くの人のデータを正確に集め、それを参考にしながら治療効果を予測しながら治療を進めていくことになります。薬の効果を判定するために行われる治験は厳密に条件を決めて効果を比較していくもので、科学を検証するためにはきわめて大切なことです。最近、問題になっている高血圧の薬のデータを捏造した事件がありましたが、大切な集合知からなっている科学を根底から否定、破壊するものであり、おわびで許されるような性質のものではありません(まだおわびの言葉は誰も発していませんが)。どれだけ治療を受けている人や薬を処方した医師や正しくそれを使えば効果があると説明してきた看護師や薬剤師などに不安、不信を与え、怒りを起こしたかは改めて記す必要もありません。医療の科学性を根底から破壊し、不信感を高めたできごとでした。これから先、他の薬に関するいろいろなデータを見せられたとしてもうそが混じっているのではないかという疑念を払しょくすることができなくなります。
 結局、自分の身にかかわる情報はそれこそ賢いウサギが耳を立てて自分がとるべき行動を自分で決めるようにしなければならないということでしょう。